FC2ブログ
2009年11月5日、バンコクに赴任しました。2011年9月1日、東京に戻りました。2013年10月1日、福岡に移住しました。
2019/101234567891011121314151617181920212223242526272829302019/12

久しぶりに古写真興味を刺激されたので、前から気になっていたネタを1つまとめておきます。あえて言うと、こちらの続きでしょうか。

雲仙温泉は歴史が古いので、今となっては検証されていない「ウワサ」のような物がたくさんあるんです。前回のチャーリー・ブラウンに続いて、この写真を検証しておきましょう。
14495244_1162896643796959_7694922680301896887_n.jpg
この大名行列のような写真(オリジナルは、長崎県歴史文化博物館蔵)、雲仙温泉に避暑に向かう西洋人、と説明されることがあります。私が調べた限りですが、この写真と雲仙温泉を結びつけたのは、『長崎県温泉誌II 小浜温泉』(長崎県衛生公害研究所、昭和63年)が、初めてです。この報告書では、どういうわけか何の説明もなく、ただこの写真が掲載されているだけなのです。しかし、この写真と雲仙温泉を結びつける要素は、実は今に至るまで何もありません。

この写真と雲仙温泉を結びつけるにあたって、先ず違和感があるのはですね・・・荷物多過ぎ! ^_^;) 明治期に雲仙温泉に避暑に来ていた西洋人が、食器やリネンまで持参した、という記録を読んだことはありますが、それにしても多過ぎでしょ・・・ ^_^;) これだけの荷物は、当時の(イヤ、今でも?)雲仙温泉のホテルの部屋に入りきらないでしょう。それに先頭に白いスーツを着た男がいますが、家族の姿が見えない。

また、この写真は、長崎県歴史文化博物館の解説によると、上野彦馬の作品とされています。上野彦馬による長崎市外の風景写真は、西南戦争従軍時の写真以外見たことが無い気がします。この写真、ホントに上野彦馬の撮影なの???

さらに、この写真は、古くは『日本写真史1840-1945』(平凡社、昭和46年)に収録されているのですが、この本でも「上野彦馬 明治初期」とあるだけで、他に一切の説明が無い。

最近でも『レンズが撮らえた幕末の写真師上野彦馬の世界』(山川出版、平成24年)に収録されていて、「明治10年頃撮影」とされているんですが、明治10年ってエジソンが電球を発明する前ですよ? ってことは、この写真に写ってる電柱は電信用ということになります。上海やウラジオと長崎を繋ぐ電信線は、こんな田舎を通らないだろうから、長崎局と東京の中央局をつなぐ線ってこと???

いずれにしても、この写真、場所はどこなのか? 年代は? 撮影者は本当に上野彦馬か? 本当に雲仙に向かっているのか?  何も分かっていなかったのです。

でもね、少なくとも場所は、ひょんなきっかけから分かりました。
57352984_2223647641055182_1738404600219697152_n.jpg
絵葉書です。
電柱の配置は異なりますが、奥に見える桜の木の配置が一致します。つまり、この写真は、長崎市内の今で言うところの本河内高部ダムです。という事はですよ、少なくともこの写真と雲仙温泉を結びつける要素は、やはり無いですね。

現時点で私が言える事は、世間のウワサに反して、この写真と雲仙温泉は無関係、という事だけです。この写真の撮影年代と、撮影者が上野彦馬なのか? は、私には分かりません。以下ヒントです。

長崎県の本河内高部ダムというのは、日本で最初期にできたダムの1つです。でね、ちょっと調べたら、本河内高部ダムの建造に当たっては、ウィリアム・K・バルトンが視察に来ているのです。バルトンは明治20年来日、内務省衛生局の顧問技師、東大の衛生工学特任講師、いわゆる「お雇い外国人」です。明治期のお雇い外国人なら、この大名行列も納得ですね。バルトンは明治22年、水道調査のため長崎に来ています。ついでに言うと、バルトンは、写真技術研究者兼写真家。

その後、本河内高部ダムの完成は、明治24年。

ということはですよ・・・この大名行列の人、バルトンその人の可能性はないですか? この写真、明治22年にバルトンが長崎にやってきて、「ココ、ダム造るのに最適だから写真撮っとくか、あっ、オレも入るよ」とか言いながら、撮った写真ではないでしょうか???

可能性は十分あると思います。バルトンの顔写真は残ってますし、長崎県歴史文化博物館蔵の上写真を高解像でスキャンすれば、上写真がバルトンかどうかは分かると思いますよ! 誰か調べません? って言うかさ、古写真研究においては、横浜と長崎では大きな差が付いてるから、長崎県歴史文化博物館には、こういう研究をやって欲しいんだけど?
こちらの続きです。
k045.jpg ← クリックで拡大
何気なくFBにコメントしたところ、古写真研究者である高橋信一先生から、上写真は、明治20年代後半のファルサリ写真館の撮影であろう、とのコメントを頂きました。そうですか、ファルサリですか・・・私はてっきり、為政虎三もしくは金丸亦四郎の作品かと思っていました。ファルサリかぁ・・・考えもしなかったなぁ・・・。

ファルサリって、いつからいつまで日本にいたんだっけ? と思って検索してみたら、ファルサリが日本にいたのは、1873(明治6)年~1890(明治23)年ですかね? ただ、ファルサリ自身が日本を離れた後も、ファルサリ写真館は、1906(明治39)年までは、存続したみたいです。ということは、この写真が明治20年代後半だとすると、ファルサリが日本を離れた後の、ファルサリ写真館が撮影した物でしょうか? もしくは、ファルサリ自身が在日中に撮影したネガを、写真館が焼いて彩色して発売した写真という可能性もあるんでしょうか? ただ、この時代は、写真館間でネガの融通をしあう事もあったようで、頭の中で整理ができていません。

ファルサリねぇ・・・と思いながら、ウィキペディアの「アドルフォ・ファルサーリ」の項(こちら)を見たら・・・アレ?手元にある写真が載ってるじゃん!
k047Japan-006.jpg ← クリックで拡大
それが、この写真。
これって、ファルサリ写真館なの? ウィキペディアによると、1885(明治18)年とまで書かれている。その根拠は何だ??? 残念ながらウィキペディア本文には何も書かれていない。まぁ、ウィキペディアの情報は、根拠が無い限り、真に受けないのが吉。ちなみに、ウィキペディア掲載の写真よりも、手元の写真の方が、画角が広いです。キャプションは、「B 1123 NO. 9, 3 GIRL.」。

あぁ、思い出した。この写真を買った時は、キャプションがBで始まるから、何となく日下部金兵衛かなぁ・・・とか思ってたんだ(あれ? でも、いつだったか、金兵衛写真館のカタログは、ファイルで入手したよな?)。

あぁ、思い出した。この写真を買った時は、「No.9」って何だ? っと思って、ネット上で調べた結果、「No.9」は、Nectarineと判明したんだった。この場では詳細は省く ^_^;) 

あぁ、思い出した。この写真を買った時は、「3 GIRL」って・・・書くなら「3 GIRLS」だろ? と思ったものです。複数形の「s」を落とすのは、ネイティブにはあり得ないから、このキャプションを付けたのは、日本人なんだろうね・・・とか思ってたんだ。

う~ん・・・古写真研究に戻りたいんだが、今のところ、時間が無い(涙)。これも、もはや老後の楽しみなのかなぁ・・・もう、老後の楽しみが順番待ちだなぁ。「オレ」が10人くらいいないと、老後の楽しみを消化できないぞ・・・ -_-;)
1か月ぶりにこちらの続きですね。
私にとっては大変悩ましい写真(後述)。
K122ed.jpg ←クリックで拡大
分かる人には、分かる風景と思います。同時におおっ!とちょっとビックリする人もいるかもしれません。写真の形態からしておそらく明治20年代と思います。
長崎県、島原半島の小浜温泉、画面の左にギリギリ豊後湯(今の郵便局辺り)が写っていないくらいと思います。他の写真と比較して、海沿いの建物(旅館)の詳しい検証をしてみたいんだけど、この写真はちょっと画質が悪いですね(これも後述)。

この写真で何より目に付くのは船ですよ! 拡大してみましょう。
K122.jpg
これが、明治中期の茂木-小浜間の蒸気船なんですよ。私が知る限り、明治期としては唯一の写真です。
 #マニアな人には、背後の山が森ではなく、畑もしくは草原らしいというのも要注目ポイント
意外と小さいんですよ・・・これ、何人乗りだろう?それに。茂木と違って小浜には当時桟橋が無いんです。どうやって接岸してたんだろう・・・?と思ってたんですが、おそらく当時の蒸気船は、接岸せずに、このように沖で手漕ぎ船に乗り換えていたんだと思います。当時の西洋人、こんな不便なことしてたんですよ。真っ白のスーツや純白のドレスにとって、これはさぞ不便だったことでしょう。

この船は、近年、夏に期間限定で運行している(今年もあるんだろうか?)、茂木と小浜を結ぶ「雲仙シーライナー」のご先祖様です。でね、「雲仙シーライナー」の広告には、「幻の航路」というフレーズが使われていましたが、この明治期の茂木と小浜を結ぶ蒸気船って、いつ頃から運行されているか? どなたかご存知でしょうか? たぶん誰も知らないでしょ??? そういう意味では確かに「幻の航路」です ^_^;) 簡単に調べてみましょう。

こういう時、どうやって調べるか? 当然ですが、当時の文献を調べる必要があります。幸い、小浜や雲仙は明治からの観光地。そうです!当時の旅行ガイドブックが残っているのですよ!これは大変便利。

●「網場で、3人の船員が付く船をチャーターして料金は1円60銭、風が良ければおよそ3時間」 (1884(明治17)年のガイドブックより)
明治17年の時点では、“風が良ければ”とある通り、この船はおそらく手漕ぎ船でしょう(帆は有ったかもしれんが)。蒸気船らしき記述は無いので、この当時、まだ蒸気船は無かったものと思われます。しかも長崎側が茂木ではなく網場。

●「夏の間は、茂木から小浜に毎日、小型の蒸気船が運航している。しかし、信頼性は高くない。がっかりしないためにも、長崎バンドのMessrs. Powers' storeに問い合わせることをお勧めする」、「もし、蒸気船が運航していなければ、旅客用平底船(passenger junk)と、通常の屋根無し船(ordinary open boats)は、いつでも利用可能」 (1893(明治26)年のガイドブックより)
明治26年の時点では、既に蒸気船が運航されていましたが、信頼性が高くない、つまり欠航が多かったのでしょう。そのため、事前に長崎のMessrs. Powers' storeに問い合わせるのが吉、とあります。Messrs.というのは、Messieursの省略形、日本語で言うところのムッシュ、ですよ。だから、Messrs. Powers' storeというのは、「パワーさんの店」もしくは「パワー商会」てな感じだと思います。茂木-小浜間の蒸気船の運行状況を何で長崎のパワーさんの店に聞かにゃならんのか? これだけでは意味不明ですが、この辺は情報が残っていると思いますから、その気になれば調べは付くでしょう。誰かやりませんか? ^_^;) 
なお、「長崎バンド」のバンドは、bundで、一般的には「海岸沿いの道」的な意味です。ただし、長崎バンドと言うと、長崎の海岸線の道から転じて、この場合は、大浦の外国人居留地を指します。当時、明治の中頃、大浦の外国人居留地には、多くの外国人(西洋人)が住むと同時に、多くの商社や西洋人向けの商店などがありました。パワーさんの店もそういった商社もしくは商店のうちの1つなんでしょう。ってことは、もしかしたら、最初期の茂木-小浜の蒸気船って、外資だったのか!? なんて可能性が無いとも言えません。この辺は情報が残っていると思いますから、その気になれば調べは付くでしょう。誰かやりませんか? ^_^;)

●「茂木から小浜まで毎日蒸気船が出ている、3時間」 (1899(明治32)年のガイドブックより)
明治32年には、特段の注記も無く、淡々とした記述になります。つまり、この頃には、特段の問題なく、普通に蒸気船が運航されていたということでしょう。

僅かこれだけの記述から、確定的な事は言えませんが、
茂木-小浜間の蒸気船の運行が始まったのは明治20年前後、20年代前半は欠航が多く、安定的に運行されるようになったのは30年前後か?
とは言えるのではないでしょうか。ということは、上の写真は、茂木-小浜間の蒸気船のかなり初期の姿である可能性が高そうです。さて、ここから先、誰か調べてみませんか?

あ、上で2か所に書いた「後述」を後述できなかった。これについてはまたいつか。

※上記ガイドブックとは、「A Handbook for Travellers in Japan」 の第2版、第3版、第5版です。オリジナルは、Kelly and Walsh社、およびMurray社ですが、著作権はとっくに切れているので、今では紙が欲しければForgotten Books版も買えます。PDFを無料公開しているサイトも結構あります。興味のある人はググって下さい。
こちらの続きです。
⑧k114 ←クリックで拡大
タイトル無し・小浜海岸2」 鶏卵紙プリント
画面、ほぼど真ん中に海に向かった特徴的な三角屋根がありますが、これが豊後湯。当時の小浜温泉最大の公衆浴場です。場所は・・・今の郵便局辺りと思います。

豊後湯を良く見てみましょう。
ダウンロード
上: 上写真の豊後湯を拡大
下: 明治期と思われる小浜温泉のイラストから豊後湯を拡大

雰囲気はよく似てますね。結構大きな建物っぽいですよね? 2階建て? イヤ、3階建てでしょうか? ・・・今の小浜温泉に、床面積がこんなデカい建物・・・あります???

ちなみに上のイラストは、小浜歴史資料館に展示されています。
DSC_0411.jpg ← クリックで拡大
小浜歴史資料館に展示されているのは、カラーコピーなんですが、これのオリジナルって、今どこにあるの??? 私が知る限り、明治期の小浜温泉の唯一の詳細な鳥観図なんだけど?

ちょっと時代は下りますが、大正11年の旅行記にこんな記述があります。
 「それに、あの小浜の旅舎のすぐ海に面している形が面白いじゃないか。」
 「そうだね? 汽船が来て、すぐ前にとまるね・・・? ちょっと絵のようなところがあるね?
  二階で見ていると、すぐ下の方を舟が通って行くからね」
  ※ 田山花袋他著(1922)「温泉周遊. 西の巻」金星堂. より

明治・大正期には、西洋人も日本人も、海から見た小浜温泉の風景を「絵のような」とか「picturesque aspect」(こちら参照)と表現していたのが面白い。しかし・・・今では、小浜温泉を海から眺める機会が無いぞ!?

茂木-小浜のシーライナーって、去年の実績はどうだったんですかね? 茂木-小浜間を、ただ船で結ぶだけじゃ厳しいと思うんですよ。でもね、長崎から茂木までと、小浜から雲仙までの交通手段を含めて、豪華でスローなツアーとかどうです? 100年以上前の西洋人の旅行を模した豪華なパックツアーとかを企画して、100年以上前に中国に駐在してた西洋人は、こういう旅程で雲仙温泉を楽しんでたんですよ・・・てなアピールをすると、今のお金持ちの中国人・香港人の日本リピーターに絶対ウケると思いますけどね・・・。
10連休の間に、海外オークションで落とした商品が届いていました。
img056.jpg ← クリックでちょっと拡大
この写真(絵葉書)は新発掘ではないのですが、思うところあってお取り寄せ。どういうわけか?、イスラエルからの里帰り。

この写真を見て、場所が分かる人がどれだけいるでしょう? 地元の人でも、すぐに分かる人は少ないのではないでしょうか? 私は当初、相当悩みました。もし、背後の山の稜線が無く、建物だけだったら、場所の特定は不可能だったでしょう。この建物、新湯ホテルです。画面に見える石垣は、今では全部埋められてます? もしくは一部は今でも見えてるでしょうか???

この絵葉書は使用済で、1904(明治37)年の消印。一説によると新湯ホテルの前身は、亀ノ屋旅館と言われています。英文資料で確認できる新湯ホテルの最古の記録が、今のところ明治30年。新湯ホテルは、明治30年には、既に西洋人の間で、「西洋人向けホテル」と認識されていました。

この写真の建物見て、西洋人が「西洋人向けホテル」と認識するだろうか? 建物はどちらかと言うと純和風ですよね? まぁ、建物は和風でも部屋にはテーブルとイスがあって、1人用のバスタブがあり、西洋料理を提供していた・・・この時代の雲仙温泉には、そういうスタイルの旅館があったのは、確かなようです。しかし、この写真は、どちらかというと、亀ノ屋旅館が新湯ホテルと改名する前の明治20年代の可能性が高い気がします。いずれにしても、明治30年前後に、新湯ホテルは洋館に生まれ変わります。

120年以上前に創業した西洋人向けホテルが今でも営業している。これって、全国的に見ても相当貴重ですよ。最後に新湯ホテルに泊まったのは・・・去年の2月の花火の時だっけ? また泊まりに行きたいね。

なお、この絵葉書、文面はただ1文、「日曜に会えるのを楽しみにしてるよ (Shall be very pleased to see you on Sunday)」。男性からロンドン市内の未婚の女性に宛てられています。ということは、投函されたのもロンドン市内もしくはせいぜい英国内なんでしょう。であれば、この男性は、雲仙温泉の絵葉書をどこで手に入れたのか? この男性は雲仙温泉に来たことがあったんでしょうか? 受け取った女性は、この写真を見て意味が分かったのでしょうか?? イヤ、もしかしたらこの2人は、120年前の新湯ホテルに泊まって、英国に帰国した直後だったのかな??? 今となっては謎です。それにしても、郵便で「日曜に会えるのを楽しみにしてるよ!」なんてことを伝える。よほど時間の進み方がゆっくりな時代だったんでしょうね・・・

第1回第2回に続く、小浜温泉の古写真まとめの第3回です。ここまでの結論は、明治中期の小浜温泉には、現在の波の湯「茜」のご先祖様と言えるような、波打ち際の温泉が2つあった。1つが「天徳湯」、もう1つが「新湯」と呼ばれていた可能性が高い、です。ただ、断定するには文献情報が少な過ぎなので、ここでは暫定的に第1回の露天風呂を天徳湯(仮)、第2回の露天風呂を新湯(仮)と、命名しておきます。

さて、次。これも本邦初公開です (と思ってたんですが、こちらのブログによると、この写真のコピー絵葉書が「熱海温泉」として売られているらしいです ^_^;)。ただ、少なくとも長崎大学付属図書館には収蔵されていませんね。
⑦117 img367 ←クリックで拡大
タイトル無し・小浜海岸1」 鶏卵紙プリント
この写真は、台紙に張られているのですが、おそらくは個人のアルバムがページごとにバラされた物だと思います。欧米の古書店には、この手の「アルバムをバラしたページ」が良く売られています。アルバム丸ごとよりもページにバラした方が、トータルとして高く売れるんだと想像します。あ、やっぱり後姿の男がいるのにも注目して下さい。

この写真は、台紙に「Hospital in Nagasaki」(長崎の病院)という少々謎の手書き文字。さらにこの台紙の裏面には、フィリピンの教会の写真。なかなか意味不明なのですが、100年以上前に作られて、いつバラされたのか?も分からない個人アルバムの来歴を想像しても決して正しい答えにはたどり着かないでしょうから、あまり気にしないのが吉です。大事なのはあくまでも写真そのものが持つ情報です。フォトショップの無い時代、写真はウソをつきませんからね。

第2回の新湯(仮)が、コレですから・・・
⑤118 img368 ←クリックで拡大
少なくとも建物は、大変良く似てますよね? でも、もうダマされないぞ!(笑)

さて、今回の露天風呂、天徳湯(仮)でしょうか? それとも新湯(仮)でしょうか? 比べてみましょう。
ダウンロード
上: 天徳湯(仮)
中: 新湯(仮)
下: 今回の露天風呂

あれれ? 今回の露天風呂は、天徳湯(仮)とも新湯(仮)とも明らかに違うじゃん! ということは、小浜温泉の波打ち際における第三の露天風呂の発見かっ!? 波の湯「茜」には、3人のご先祖様がいるのかっ!???

しかしですね、右脇の石垣を拡大すると・・・
ダウンロードeded
左: 新湯(仮)
右: 今回の露天風呂
これは、同じ場所と言わざるを得ないでしょう・・・石垣がここまで偶然に類似することはあり得ません。というわけで、建屋の形は違いますが、今回の露天風呂は、新湯(仮)で決定です。

建屋の形が違うと同時に、右の旅館、第2回の写真には、竹(?)で支えたベランダがありますが、今回の写真にはありません。これは正真正銘、年代の差です。さて、では、どっちが古いんでしょうか? ・・・・・・・・・おそらく今回の写真の方が古いんだと思いますが、まだ精査できていません。どなたか、研究してみませんか? 高画質のスキャンをお送りしますよ!

この写真より10年くらい後の時代と思うのですが、明治34年出版の西洋人向け英文ガイドブックには、こう書かれています。「小浜の村は、海から見ると、絵のような美しさです。長い支柱で支えられたベランダを持つ家々が、高い石垣の上に建てられています。(The village has a picturesque aspect when viewed from the sea, the houses being built on a high stone embankment with their verandahs supported on long poles.)」 あ、正に写真の通りじゃん! 次回に続く。
こちらの続きです、第2回目。第1回を読んでない方は、ぜひ左リンクからどうぞ。
⑤118 img368 ←クリックで拡大
「Shimabara Nagasaki」 絵葉書
これは絵葉書ですが、元ネタは長崎大学附属図書館のこちらですね。つまり、タイトル「H17 SHIMABARA」を絵葉書にコピーした物。私は未だオリジナルの鶏卵紙プリントが入手できていません。長崎大学付属図書館のデータベースにも高精細画像が入ってないので、残念ながらイマイチ使えない。

⑥k106 ←クリックで拡大
「260 OBAMA」 鶏卵紙プリント
上の「Shimabara Nagasaki」と同じ海岸沿いの温泉ですよね。ただ、カメラがより引いた位置です。後姿の男が1人いるのにも注目しておきましょう。

さて、前回と今回の露天風呂、いずれも海岸の波打ち際、周囲の風景もよく似ています。比べてみましょう。
①k005
上: 前回の露天風呂
下: 今回の露天風呂
屋根の角度や柱の造りが明らかに違います。でもね、私は一目見て、これら2枚は同じ露天風呂で、建屋の形が違うのは、年代の違いだろうと思い込んでしまいました。だって・・・こんな海岸の波打ち際の特徴的な露天風呂を見たら、先ずは直感的に同じ場所だろう、と思ってしまいません? それに、この手の簡素な屋根だけ建屋は、台風が来れば一発でしょうから、短い時間間隔で建て替わっても不思議はありません。では、どっちが古いのだろう? それが知りたくて、写真をよ~く眺めたんです。

結果、分かったのはですね・・・前回の露天風呂と今回の露天風呂は、別の場所です。周りの風景は良く似ているんですが、これは、当時の小浜温泉の風景がどこも雰囲気的に似ていたためであって、細部が一致しないんです。一旦、同じ場所で、時代が違うのだろう、と思い込んでしまうと、抜け出すのに苦労しました。細部が違っていても、それは時代の差だろうという目で見てしまうので、抜け出すのにエラい時間がかかりましたよ。詳細は省きますが、この2つの露天風呂は別の場所です。ただし、背景を比べると、それほど離れた場所ではないはずです。

そっか・・・当時の小浜温泉には、こんな波打ち際に2つの露天風呂があったんですね・・・。今現在、小浜温泉の海際には、波の湯「茜」ってのがあるじゃないですか。これって、観光客目当てに安易に波打ち際に造ったのかと思ってたら! 満潮時に波が入ってくるような場所に温泉があるのは、少なくとも120年以上前からある、小浜温泉の伝統じゃないですかっ! イヤ、写真が残ってるのが120年前というだけで、実際にはおそらく何百年も前からあったのでしょうね。そう思うと、波の湯「茜」の魅力倍増! また行こう。できれば、高潮の時とかに行ってみたいね! ^_^;)

で、この2か所の露天風呂が同時に写っている写真がありました!
無題
「261 OBAMA」 鶏卵紙プリント
この写真、長崎大学附属図書館に収蔵されているのですが、私は未だ実物が入手できていません。ただ、幸いに長崎大学附属図書館に高精細画像(こちらです)が用意されているのでありがたい。

高精細画像を画面キャプチャで切り抜きます。
無題2
ホラねっ! 一目瞭然! 左が、前回の露天風呂。右が、今回の露天風呂。

これを文献と照らし合わせるとですね・・・
小浜温泉図  ←クリックで拡大
長崎県衛生公害研究所編(1988)『長崎県衛生公害研究所報 第29号(昭和62年度論文集)長崎県温泉誌II 小浜温泉』 長崎県衛生公害研究所. P. 31、図10を引用。

前回の露天風呂が「天徳湯」、今回の露天風呂が「新湯」の可能性が高いと言えそうです。ただ、これだけの情報から結論を出すのは、少々心許ない。確定的な事を言うには、新規の文献発掘が望まれますね。次回に続く。
さて、唐突ですが、ここで長崎県小浜温泉の古写真をまとめたいと思います。
雲仙温泉は、学術論文にまとめたのですが、小浜温泉は、時間が無く、手持ちの古写真が整理できなくなってきてるので、自分のための備忘録のようなものです。先ずは、小浜温泉の海岸線が写った写真から。下の写真はいずれも明治中期、おそらくは明治20年代です。
s-l1600.jpg ←クリックで拡大
『A 178 OBAMA AT NAGASAKI. 』 鶏卵紙プリント
この写真は、長崎大学付属図書館にも収蔵されています(こちら)。古写真研究をするにあたって、先ずは長崎大学付属図書館のデータベースを参照した私にとって、この写真は、小浜温泉における古写真収集の原点です。最初の頃は、この写真の風景が今のどこなのか? 全く分かりませんでした。何しろ120年以上前。それに小浜温泉の海岸線は、明治期に埋め立てられてます。この写真を見ると、建物が斜面にへばり付くように、海岸線に沿っています。そりゃ、確かに埋め立てて陸地を増やしたかったでしょうなぁ。

自分で現地に行って調べると共に、フェイスブックのグループ「FB UNZEN FAN CLUB」で聞いたりして、ようやくこの写真の場所が分かりました。国道251号線を南下すると、小浜温泉のほぼ中心部、雲仙温泉へ向かう国道57号線が左に分かれる交差点付近、今ではホテル・オレンジベイとかリンガーハットがあるじゃないですか。この写真は、おそらくこの辺から北を向いて撮られています。正確には、今の251号線自体が埋め立て地だと思いますから、交差点よりもっと陸側、今で言うと・・・「よしちょう」とか「うぐいすや」の裏くらいが、この写真を撮ったカメラの位置かもしれません。この写真については、以前も書いたので、こちらもご覧ください。

さて次。
146413720215014406180.jpg ←クリックで拡大
『A 179 HOT SPRING OBAMA AT NAGASAKI. 』 鶏卵紙プリント
この写真を発掘した時は、本当に驚きました。人が写ってる! しかもみんなはだかぼん! しかも混浴! この写真によって初めて小浜温泉の海岸沿いの温泉の様子が分かりました。それまで、文献では、「満潮時には海水が湯船に入ってくる」なんて記述を見たことはあったのですが、この写真を見れば一目瞭然。確かにこりゃ、満潮の時は危ういよ。高潮の日は入れませんな。それに、ホントに混浴に違和感が無かったんですね・・・って、言うか、よそから丸見えの露天風呂だし。

それに当時の湯船というのは丸型だったんですね。コンクリート製でしょうか。それほど大きくはない印象ですね。このサイズだと、1人で入れば超ゆったりですが、公衆浴場としては意外と小さい。右に立ってる青い服の男が湯守でしょうね。で、みんなこっち見てる。つまり、写真に撮られてるのが分かってるんです。裸を撮られるのも、発売するのも憚られることは無かったってことですね。

おんせん県別府の公衆浴場って、古くから大きな湯船がど~んとあったんだけど、小浜温泉は何でこんなに小さい湯船が複数あるの? それに、この湯船にどうやって湯を入れてたの? まさか湯船の真下に源泉があるわけじゃないよね? 何しろ小浜温泉の源泉の温度って、105 ℃という日本最高のミラクル熱々温泉ですから、源泉をどこかで冷やして湯船に入れないと、釜茹での刑です。どうやってこの湯船に湯を入れてたんだろう・・・? まぁ、この時代ですから、桶を使って完全人力という可能性もありますが、上写真の右上を拡大すると・・・
②105 img306ed1
ホラ、ね? 何やら「ザ!鉄腕!DASH!!」でTOKIOが作りそうな、何らかのディバイスがあるんです。もしかしてコレって、湯をくみ上げるのに関係してないかね? あ、それから、特に左下の湯船、どうやって湯を抜いてたの??? 古写真というのは、多くの謎を解いてくれると同時に、同じくらい多くの新たな謎を提供してくれます。だから辞められない。この写真も、以前書きましたので、こちらもご覧ください。

次。
③087 img246 ←クリックで拡大
『Obama at nagasaki』 絵葉書(エンタイア)
さて、これは見ての通り、上の『A 178』をコピーした絵葉書です。ありがたいことにエンタイアで1906年6月のサインがあります。1906年は、明治39年ですね。おそらく写真の撮影から15年くらい経っているはずです。この絵葉書は、多くの枚数が発行されたらしく、今でも比較的良く目にします。明治最末期には、多くの鶏卵紙プリントが絵葉書にコピーされました。これも、そんな1枚。

次。
④072 img224 ←クリックで拡大
『OBAMA AT NAGASAKI.』 絵葉書 
これも1つ上と同じ、『A 178』をコピーした絵葉書です。でも、画面左奥の海岸線の様子がまるで違いますよね? さてこれはなぜでしょう? 答えは日露戦争。日露戦争に伴う対外機密保持のため、日本の海岸線が分かるような写真には、検閲が入ったというわけ。それで、海岸線の様子が分からないように消されちゃったんですね。

小浜温泉には、「〇〇湯」という名の付いた温泉が多くあったのですが、意外なことに正確な場所が良く分かっていません。どういうわけか、小浜温泉は、明治の埋め立て以前の古い地図がほとんど残っていないのです。イヤ、「ほとんど」ではなく、「全く」と言っても良いかもしれません。よって、上写真に見られる露天風呂が何湯か? 良く分からないんですが、今のところ、これは「天徳湯」ではないか? と思っています(これについては後日、再度触れます)。次回に続く。
現状で、私の手元には以前入手して、詳細を調べきれていない古写真が何枚かあるのですが、その中の1枚。
k045.jpg
 ↑
クリックで拡大。
キャプションは、「G71. INASA, NAGASAKI. 」。長崎のイタリックGシリーズ、おそらく長崎大学の古写真データベースには入っていないと思います。

で、昨日からフェイスブックの方で、茂木の「ビーチホテル」について調べていたら、「ビーチホテル」→「道永エイ」→「諸岡まつ」→「レストラン・ボルガ」に行きつきました。そして見つけたのが、長崎大学古写真データベースにあるこの写真 ↓
 http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/jp/target.php?id=5521

というわけで、「G71. INASA, NAGASAKI. 」の建物は、レストラン・ボルガと判明! そっか・・・なるほどね・・・。ここからさらに調べて色々書きたいことはあるのだけど、またいつか。1点だけ指摘しておきます。中央付近を拡大すると・・・
k045ed.jpg
 ↑
クリックで拡大。
あっ! ここにもGのおっさん!!!
このおっさん、やっぱアヤしいよね・・・ホントに写真師を案内した、単なる人力車夫だろうか???

*「Gのおっさん」については、こことかここを参照してください。
こちらの続き。
img001.jpg ←クリックで拡大
実はもう1枚、同じアングルの写真を買っているのです。キャプションは、「263 / NAGASAKI. 」。長崎の200番台といえば江南信國スタジオですが、これは違います。キャプションが黒字白抜文字のテープではなく、白抜文字のみです。売主によるとスティルフリードの作品とのことでしたが、もちろん、それを鵜呑みにしてはいけません。

もう一度、このアングルの写真をまとめます。
 ●目録番号 2901 撮影者未詳、文久2年(1862)の始め頃
 ●目録番号 6161 ベアト(ボードウィンコレクション)、文久4年/元治元年(1864)撮影
 ●目録番号 1290 ベアト、慶応元年(1865)~慶応3年(1867)撮影
 ●目録番号 5380 ベアト、 慶応3年(1867)頃撮影
 ●目録番号 1224 内田九一、明治5年(1872)~6年(1873)頃撮影
 ●目録番号 2868 撮影者未詳、明治7年(1874)~8年(1875)頃撮影
 ●目録番号 5887 撮影者未詳(長崎のAシリーズ)、明治10年代末
 ●「9 / NAGASAKI HARBOUR. 」 長崎大学の目録番号5887のバージョン違いか?

今回の「263 / NAGASAKI. 」の特徴は、何と言っても中島川の河口に広大な砂州が広がっていることでしょう。この時代、中島川河口の堆積物によって、干潮時には出島は既に「島」ではなくなっていたのです。これでは外国船が港に着けません。そのため、中島川変流工事が行われたというわけです。中島川の変流工事については、こちらの「中島川変流工事跡」が、コンパクトにまとまっていて分かり易いですね。

この写真の年代ですが、明治15年築の活水のラッセル館が無いので明治15年以前です。初代税関の建物が既に無いので、長崎大学の目録番号2868と5887の間に撮影された物でしょう。 

この写真、解像度はそれほど高くないのです。また、周辺のボケがひどい。もしかすると、紙のプリントを性能の低いレンズで複写したのか?という気もします。ただし、サイズはフルサイズです。

右の中央やや下を拡大します。
k110 img019eded ←クリックで拡大
ベルビューホテルの裏が写っている写真ってほとんど無いと思います。裏にももう1軒、洋館がありますね・・・。それから奥には建築中の洋館が1軒。建築の専門家が見たら面白いんじゃないでしょうか? また文献と照らし合わせることによって、この写真の撮影年が特定できる可能性がありますね。

また、画面中央下やや左を拡大すると・・・
k110 img019ed1
客待ちの人力車! 
この場所は、現在だと・・・

ココですよ。
観光客が、最も良く訪れる長崎の場所の1つですよね。