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2009年11月5日、バンコクに赴任しました。2011年9月1日、東京に戻りました。2013年10月1日、福岡に移住しました。
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FBにインスパイアされて、手持ちの資料をひっくり返しました。

雲仙温泉は歴史が古いので、今となっては検証されていない「ウワサ」のような物がたくさんあるんです。チャーリー・ブラウンは、その最たる物です。ここで、雲仙温泉と西洋人の最初期の接触をまとめましょう。

× 1855(安政2)年、高島炭鉱の技師、チャーリー・ブラウン(本名ニールズ・ルンドバーグ)が、上田屋に宿泊。
このエピソードは、いろんなところに引用されているのですが、結論から言うと、これは誤りです。なぜなら、長崎港が外国人に開港するのは1859年。もし、開港前の1855年に西洋人が、雲仙はおろか、長崎の出島の外をうろついていたら、切り殺されかねません ^_^;) また、江戸に早馬を飛ばすべき外交問題になっていたはずです。しかし、幕末の日本史を勉強してもそんな話は出てきません。よって、このエピソードは、事実ではないと考えます。ブライアン・バークガフニ先生の著書には、チャーリー・ブラウンは、1859年に長崎にやって来たという記述があるそうなので、この点からもこのエピソードは誤りですね。なお、このエピソードの初出は、私が調べた限り、園孝治郎 (1926) 『雲仙岳と島原半島』 雲仙社. です。それ以上遡ることができないのです。園(1926)は、他には無いオリジナルな記述が多く、雲仙温泉の歴史を勉強するためには必読の書ですが、誤りもあるという事ですね。

〇 1866(慶応2)年、フランス公使が、雲仙温泉を温泉治療のため、フランス人に開放することを長崎奉行に請願。島原藩はこれを断る。
このエピソードは、日本語のみならず様々な英語文献でも確認できますので事実と考えます。しかし、スゴくないですか? フランス政府が、自国民の温泉治療のために、雲仙温泉を使わせてくれ! と請願してきたんですよ。当時、それだけ、雲仙温泉の効能が知られていたという証拠ですね。残念ながら、島原藩は、攘夷派がフランス人に危害を加えたら、藩の責任問題になりかねない、と考えて、これを断りました。

〇 1867(慶応3)年4月9日、英国人2人が、小地獄で逮捕。
このエピソードは、小浜町 (1978) 『小浜町史談』 小浜町. に、英国人2人をガイドした日本人の名前や、取っ捕まえた島原藩士の名前まで詳細な記述があるので、事実と考えて良いでしょう。小浜町(現雲仙市)は、今でも当時の公文書を持っているのではないでしょうか(私は古文書を読めないので、確認していませんが)。この当時、西洋人の移動は、港の周辺に限られていました。だから、この英国人2人は逮捕されたわけです。前年に島原藩は、フランス政府からの請願を断っていますので、この英国人2人が雲仙温泉における最初の西洋人と考えて良いでしょう。なお、この英国人2名は、1)島原藩が護衛付きで長崎に送った、、2)イギリス領事が小浜まで出向いて身柄を確保して長崎に連れて帰った、という2種類の文献があり、どちらが正しいのか? 個人的には不明。ただし、英国の公文書を調べれば、事実確認は容易でしょうね。誰かやりません? ^_^;)

△ 1870(明治3)年、米国軍人7人が湯元旅館に宿泊。
このエピソードもいろんな資料に出てくるのですが、確証がありません。このエピソードも、私が調べた限り初出は、上記園(1926)です。ちょっとアヤしいね・・・ ^_^;) 園(1926)では海軍将校となっています。しかし、小浜町(1978)では、陸軍将校。う~ん・・・。これも、米国の公文書を調べれば検証は難しくないと思います。ただ、湯元旅館は今でもありますから、もしかしたら湯元旅館の宿帳とかが残ってるかもね。湯元さん、資料、残ってます???

江戸末期から西洋人に注目されていた雲仙温泉、スゴいじゃないですか!

写真は、手元にある雲仙温泉の写真のうち、最も古いと思われる1枚。
k116_20190929174756c51.jpg ← クリックで拡大
新湯。右に大叫喚地獄の湯けむり。左奥に温泉神社。
明治20年頃かなぁ・・・幕末はもっと田舎だったと思うよ。
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